とよぶ

歌いながらコード書いてます

わがままを書こうと思う

昨日(12/09)、福岡から飛行機にて東京へ戻ってまいりました。

福岡は寒かったと感じているのは多分気候だけのせいじゃない。
今回の福岡帰省ではいろんなことを知ることができた。感じることができた。
僕にとっては無くてはならない数日間でした。

序盤の出来事は前回の記事を読んでください。

父祖父亡くなる

最期の最期まで力強い父祖父でした。

僕が病室に辿り着いた時にはすでに父祖父は酸素吸入器を装着し、利尿剤、強心剤、昇圧剤を投与されていました。

聞くところによると、ほんの1週間前までは普通に会話ができ、自分で歩くこともできていたらしい。
そんな父祖父は、次第に食欲がなくなり、筋力が衰えていったのだろうか、ある日突然呼吸困難に陥ったそうです。

それでも何とか生きようと、何度呼吸が止まっても必死に肩で息をしていました。
褥瘡ができぬように定期的にポジションを変えるんですが、その度に呼吸が止まるんですよね。
見ていられなかったけど、絶対に目を背けたくなかった。この目にその生き様を刻みたかった。

耳元で何度も「じいちゃん!」と呼びかけました。
それに対する返答はありませんでした。
痰が詰まっているのか、たまにうめき声のような声をあげるんです。
何かを伝えようとしていたのか、それはわかりません。

最後の日の前日、遅くまで病院に残ってずっと見守っていたのですが、夜遅くなって帰ることにしたので、「じいちゃん、もうちょっとがんばらんね!あとちょっとやけんね!」と声をかけました。
それが最後でした。

翌日の正午過ぎに、3人の子供が見守る中、旅立ちました。
94歳でした。

おもひで

父祖父は大正生まれで、戦争経験者でした。
シベリアに4年ほど抑留されたものの、見事に生き抜いてきた武勇伝とその時の話を、涙を流しながらよくしてくれました。

あれだけ元気に農作業して、軽トラを運転して僕達を色んな所に連れて行ってくれた父祖父。
電動車いすになってもこれでもかと買い物にだけはめちゃめちゃな遠征をして周りはいつも心配してた、買ってくるものも大したものじゃないしw

僕が生まれて6年経って、母が死んだ頃かな。
父祖父、父祖母にお世話になり始めたのは。
だから結構長い時間一緒に住んでたんです。

ろくな孝行できなかったなー。。。
今となってはシベリア抑留の話とか戦争の話とかもっと聞きたいし、買い物とか代わりに行ってやればよかったって思う。
孝行しようと思った時にはその人はいないってのは本当だった。

父祖父の死を聞かされた小さな弟、妹

父祖父の遺体は仮通夜をするために一度本家の座敷に移されました。

そこに小3の弟、小1の妹も連れて行くわけです。
小1の妹は
「じいちゃんとはもう会えんと?」
「じいちゃん箱に入れてしまうのかわいそう」
「じいちゃん燃やすのいやだ」
って言ってずっと頭を撫でてました。
その後はいつ生まれたとか、大正時代ってどんなだったとか色々と質問をしてきて、子供は子供なりに人の死に向き合ってるんだなって。

小3の弟はその時スマホいじってばっかりで何も聞いてこなかったけど、その日の夜風呂に入っている時に
「なんで人って死ぬのに生まれてくると?」
「死ぬなら生きる意味ないっちゃないと?」
とか聞いてくるんですよね。これにはさすがに返答に困りました。
僕は
「じいちゃんが生まれてなかったら僕もいないし弟もいないやろ?だから生まれてきた意味はあるはずよ。だからありがとうって思わないといかんよ」
って答えました。
ありきたりな答えだな。

夢がまた増えた

父は、父祖父(父のお父さん)の死を見て何を思ったろうか。
母、父祖母の死に目を見れなかったことを多分ずっと後悔してて、今回は特に必死だったんだと思うんです。
だから父兄弟の中でも一番病院に足運んでたらしいし、ずっと見守ってたらしい。

僕はその姿をみてすごい素敵だなって思ったし、僕もその父を絶対大事にしたいって思いました。
父だけじゃなく、今の母もめちゃ大事にしたいし、弟、妹も大事にしたい。
そしてみんなで色んな話して、色んな所行って思い出いっぱい作りたい。

だからたくさん稼いで、家族を関東に移住させたいっていう夢が増えました。
そのためには今の仕事をたくさん頑張って成果出す。

武道館ワンマンライブする時は家族全員招待したい。
だから朝早く起きて筋トレする。
日中の業務時間の集中力を高めて早く帰り、歌の練習を増やす。

やりたいことがまた増えた。

それらを全部叶えるためには、我をしっかり持って貫いて、一歩一歩着実に階段を登ることだと思う。
この数日間のことは絶対に一生忘れない。